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町名あれこれ |
錦三丁目と清洲越し |
錦三丁目には歴史を刻んだ地名があちこちに残っています。町名は町のおこりを物語る文化遺産。そして、ここに住む人々の心のふるさとです。
錦三丁目の町の誕生も町名の由来も、四百年前、清洲の城下町がそっくり名古屋に移動した清洲越しを抜きにしてはあり得ない、といいます。慶長年間、関ヶ原の合戦で勝利を納めた徳川家康は、大阪方の勢力を威圧するため名古屋に城を築くことを計画します。九男の義直を城主に、豊臣方の加藤清正、福島正則らを味方につけ名古屋城を築きました。そして、城下に町を開くにあたり、家康は清洲の城下町を一気に那古野に移転させ名古屋城の城下町にしました。この歴史に残る大移動が清洲越しです。
町が整うと地名も那古野から「名古屋」に改めました。大須観音、朝日神社もこの清洲越しで移されたものです。現在も名古屋の経済界の中心的存在の老舗、松坂屋(伊藤治郎左衛門氏)、名エン(青木信樹氏)なども・清洲越し″の商家として地元の人々の敬愛を集めています。 |
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針屋町 |
清洲に針屋小路というところがあり、ここへ移って来たときに町名としました。のちに改称。 |
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朝日町 |
もとは小林村という笹の茂った野原でしたが、清洲の朝日町をここに移して町名としました。 |
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神楽町 |
もと宮町の一部でしたが、久屋町筋と武平町筋との間に、神楽坂という坂があり、明治四年に今の町名になりました。 |
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宝町 |
昔は文俗していた町名がなく、袋町筋といっていましたが、明治四年に独立。宝の袋というめでたい意味にちなんで宝町と命名しました。 |
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鶴重町 |
清洲の新町に、丹羽三左衛門という刃物鍛冶がいました。三左衛門は名工になりたいと伊勢神宮に祈願に行くこと二十七回。ある日、三左衛門の夢に神が現れ、刃物の銘を「鶴重」にせよと告げました。お告げを受け、三左衛門は彼が打つ刃物の銘を鶴重と改めました。やがて三左衛門の刃物は評判となり、町名も鶴重町となりました。 |
そして慶長の清洲越し。鶴重町の町名も清 洲越しとともに名古屋に移りました。元禄 元年、五代将軍綱吉に鶴姫が誕生。鶴重町 の町名は・鶴″を避け本重町と変わりまし た。しかし約百五十年後の天保五年、町の 人々の願いで再び鶴重町に改められ、今に 至っています。 |
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富沢町 |
慶長十六年、清洲から移されました。当初は馬持ち達が暮らし、伝馬役七間町といいましたが、後に伝馬頭の支配を離れ、新たに町代役を仰せつけられました。その時に松本町と改められました。
宝永五年、尾張家三代綱誠の女、磯姫が松姫と改名され、その名前を避け富沢町と改められました。 |
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蒲焼町 |
名古屋城の築城が始まった頃、この辺りに茶屋や煮売り・酒等を商う人達が多く集まり、中でも蒲焼きを売る店が立ち並んでいたといいます。築城に携わった人達も蒲焼きでスタミナをつけ、お酒で一日の疲れをほぐしたのかもしれません。当時の人々の様子や、町の活気がこの町名から伝わってきます。 |
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小市場町 |
小市場町も清洲から引っ越してきた町です。引っ越し当時は北市場といいましたが、いつの頃からか「北」の字を「小」と書き誤り、そのままになってしまったそうです。市場は市日があり、魚類や野菜の商人がここに多く集まり商売をしていました。ここは町の人々の胃袋を満たす台所だったのです。 |
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きょくえんあと |
大津通袋町交差点から少し西に入った和菓子の老舗「亀末廣」の前に「きょくえんあと」と刻まれた石碑が建っています。ここには安政五年伊藤圭人が開いた薬草園「旭園」がありました。内外から集めた数多くの種類の植物を栽培し、南に面した離れには温室も設けてありました。昭和十年頃まで毎年博物会を開き、多くの人々がここに集まってきました。屋敷の中央には柳葉ユウカリが枝を張っていましたが、今はその面影は全く残っていません。 |
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朝日神社 |
広小路通りを歩いていますと、ビルの谷間から歩道に力強く枝を伸ばしている緑が目につきます。天照皇大神をまつる朝日神社です。道行く人達が立ち寄って気軽に手を合わせていきます。 わが街のお宮さんとして地元の人達はもちろん、多くの人々からも親しまれている神社です。清洲越しで沢山の寺院が名古屋に引っ越してきました。ですが、神社の引っ越しは三社だけでした。その一つがこの朝日神社です。以来、広小路神 |
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神宮の名で親しまれ、広小路発展の中心になってきました。明治四年、朝日神社と改 称しています。戦災で消失した社殿も昭和二十七年に再建、昭和三十三年には末社も 復興しました。ここには八つの末社がありますが、その一つ、公孫樹龍神社には、こ んな伝説が残されています。境内に大きく枝を張る大きなイチョウがありました。戦 後境内を整備するため、このイチョウは倒されることになりました。クレーンを使っ て倒そうと試みたのですが、周りの建物に阻まれ、クレーンを使うことが出来ません。 それを聞いた一人の老人が、このイチョウを切ることをかってでたのです。イチョウ を輪切りにして伐採をはじめました。ベテランの人だったのですが、どうしたことか 作業中に老人は落下してケガ。結局イチョウは切り倒されたのですが、そこには白ヘ ビが住みついていたのです。何人かの氏子の夢に白ヘビが現れ、「住みかがなくなっ た」と告げたそうです。そこで氏子たちによって公孫樹龍神社が建てられました。そ の後、ここには再びイチョウが植えられ、夏は境内に涼しげな日陰で人々を憩わせ、 秋には黄色く色付いた葉が境内を飾っています。こんな伝説がある朝日神社ですが、 歩道に面した透かし塀の「不浄除け」は戦災を免れ、江戸時代に建設された当時にま まの姿で道行く人々を見守っています。 |
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円輪寺 |
享保十八年(1733)、名古屋で心中未遂事件がおきました。畳屋喜八と遊女小さんが闇森八幡社で心中をはかったのです。ちょうどその頃、売れっ子の浄瑠璃師の宮古路豊後掾が名古屋に滞在中。豊後掾は早速この心中未遂事件を題材に「おさん・伊八睦月連理椿」を書き下ろし、翌年正月ここ広小路の芝居小屋で初演しました。興業されると、この出し物は当たりにあたって、さしもの広小路も狭小路といわれるほどの入りだったということです。豊後掾はこの作品を江戸に持ち帰り、彼の十八番の語り者として上演したところ、江戸でもこの新作は評判となり、豊後節は一世を風靡するほどの人気を得ました。「おさん・伊八睦月連理椿」が初演された芝居小屋は、現在の円輪寺の場所にありましたが、円輪寺が建てられたのは初演から十二年後の延享二年(1745)のことです。ちなみに喜八、小さんは法に従って三日間晒されるのですが、二人を見に来た人達は、「いつまでも仲良く添い遂げるように」と、声をかけていったということです。当時、情死が美化され次々と情死事件が起き、八代将軍吉宗は心 |
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中情死には厳しい処置をとっていましたが、二人が命をとりとめたと知ると、三日間晒した後は罪を許し、夫婦にしてやるようにと の処置をとりました。寛大な宗春の裁きは当時話題を呼びました。事件の主人公小さんは以後夫婦になり、男子を出産しています。 |
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